フリーマーケット

バブルがはちけて一般の顧客にも目を向けなければと思っている所に活性化委員会の話が入って来た。商店街の二世を集めて活性化委員会を作る話だ。僕は二世の会といえばあほ盆が集まって酒飲んでなぐさめているだけの会という認識があり、そんな会ならお断り、やるならほんとうに活性化するために集まりたいと思った。また活性化委員会に近状のリビングハウスの社長も加わるというのもあってなぜか期待が持てたのだ。二世の会は10人くらいで各家具屋の二世と仏壇屋やなどだった。親たちは実はすけべ心で、なんか大阪市に対して二世が活性化活動をやってると助成金がもらえるらしいとの情報を得、どこかの成功している商店街や家具店を観に行ってくれるだけで助成金がもらえることのほうに期待し、まあ二世が飲み会をして懇親を深めてくれれば活性化なんでどうせ無理なんだから二の次の話だった。活性化委員会は1991年に立ち上がりお決まり通り。横浜の活性化に成功した商店街の視察や大塚家具の視察など懇親のための旅行が企画された。次には女性のためのインテリアセミナーなどを開催し。少しでもインテリアに興味のある顧客を呼ぼうと開催される。このままでは街は少しも変わらないと僕はある考えを提案する。「日曜日若者にこの通りを貸して欲しい」という提案だ。ちょうどバブルがはちけて世の中はリサイクルもひとつのブームフリーマーケットなるものが脚光を浴びていた。ちょうどその頃南港でフリーマーケットが開催されていて5000人もの若者を集めていたのだ。南港といってもその当時は中央線からのアクセスはなく住之江からモノレールに乗って梅田からだと1時間もかかる墓所に5000人も集まっていたのだ。5000人もはじめは何百人からはじまり徐々に増えて来たのであろうが、5000人集めるのに20000人にDMをうっていたのだ。これを使うしかない。ちょうどフリーマーケット協会に昔大晦日のコンサートで知り合った源さんが所属していた。さっそく源さんと出会い立花通でフリーマーケットができないか企てる。思いつきは1992年の4月からはじまったが立花通を歩行者天国にすることはまず無理。しかも道で物を売るなんてとんでもない。企画は暗唱に乗り上げた。その年の9月にはヨーロッパの視察でイギリスを訪れ、ポートベローやカムデンロックという元々アンティークの家具屋などが集まっている通りで土日、アンティークマートを開催することで活性化をはかり、今やアンティークとして観光の街になったところやカムデンロックなんかアメリカ村みたいな賑わいを見せていた。アンティークマートとポートベロー、フリーマーケットと立花通、ますますこの構想は成功する予感がした。ちょうど立花通もバブルがはちけ将来マンションでもたててもうけようと駐車場になっている所がたくさんあった。次の発想は通りが駄目なら駐車場。立花通に面している駐車場を全部借り切ってフリーマーケットを開催する。家具屋さんは前にワゴンセールを出してやれば通りでフリーマーケットをやっている演出はできる。この作戦だ。会議に会議を重ねた上、やっと12月に試験的にフリーマーケットを開催することにこぎつけた。そしてどうせやるなら。来たお客さんがびっくりするようなことをしようとフリーマーケットにはおきまりの大道芸人をやっとって通りでパフォーマンスさせたり、ストリートバンドが演奏している状況など知り合いのジャズバンドに交通費程度で演奏してもらったり、また通りの端まで歩いてもらわないといけないのでスタンプラリーを開催してスタンプポイントはアメリカ村にも含め6カ所くらい置き、4つスタンプが集まれば、最終地点、立花通の一番西の堀江家具で景品を差し上げるという仕掛け。Tシャツなんか出したときには800人もの人が立花通りを端から端まで歩いた。南港で5000人せめて1割の500人は集まるだろうと読んでいた。そして第一回目は小雨にもかかわらず2000人もの人がはじめてアメリカ村から四ツ橋をわたって堀江にやって来た。DMも20000人に送られ立地もアメリカ村の西、立地条件も悪くない。成功の後、3月より第二日曜日はフリーマーケットの日とし、12月まで毎月定期的に開催されるようになった。そして第一回目