カイト・ランド創刊号

僕はあの夜もオオカミになろうとしていた。

京女の○○さんとの初めてのデートがカイトランドの出稿の日だった。何処へいったかは今となっては覚えていないがデートは意外にも早くフィナーレを迎えた。オオカミになりそこねた僕はカイトの事務所に電話をした。すると明日の朝一番に印刷屋さんに版下を出稿する前の晩だった。猫の手でも借りたいそんな事務所の状況が伺えた。電話口で「ほんなら手伝ってあげるよ」と岩倉に向かった。ドアを開けるとそこには武藤氏カズさん、逸朗とまるで空くじを引いた連中が武藤さんに叱られながら作業を進めていた。こらが最初の版下作業だった。今のようにコンピューターでのDTMではなく写植とロットリングでの作業。すでに出来上がった原稿が写植となりそれを台紙に張っていく。経線は」手作業でロットリングと尺で引いていく。また写植はむ難しい作業だと値段が高いので表組はロットリングの作業。ライブハウスの名前と住所など何回も使えるように別に作っておき3行分に貼付けていく。ペーパーボンドという張っても剥がせるのりで貼付けていく左右平行に張るには、写植を左右平行に切る技術からはじまる。最初の経験だったもんで出来上がってみればひどいもんだ。ロットリングの引いた線はがたがたで写植は斜めノリのはみ出しは人一番、製版屋さんを煩わせた。そしていくら僕が工作得意で美術系でもはじめての徹夜作業は過酷であった。そして夜明けを迎え、はやく出来上がらないと間に合わない。死ぬ思いでようやく完成にこぎ着けた。そして出来上がった版下を眺めた時。僕の人生は変わった。SMのけがあるのか普通ならこんなしんどい仕事は二度とお断りだと思うのだがまたやりたい癖になりそう。いやあのひどい版下を見てもっとよいものを作りたいと目覚めたのだ。僕はその時点でカイトに身を捧げる覚悟だった。その後0号の悲惨な制作過程を反省して、やっぱり編集長はもっと統率の取れる経験者になってもらおうと、東京のキャンパスシティのを引き抜くというとんでもない作戦がたてられた。あの夜それは実行された。夜遅くまでやっているからふね屋という喫茶店に武藤/和田/掛野と幹部連中とそして主役が現れた。みんな学生なのにおとなみたいな口調で取引はかわされた。そして結果は白紙に東京から引き抜いて情報の経営がやっていけるわけないのは目に見えていたことだ。そこで思わぬ展開が待っていたS。オブザーバーのつもりで参加していた僕が血迷ったのか「それなら3ヶ月間僕が編集長をやろう」と言い出した。実は僕はバリバリの理科系で自分の文章など書いたこともない未経験者だった。学生でこんなことやってるとテレビ番組が取り上げてくれるやろうという下心と叱られていたスタッフの面倒を誰よりもうまく扱える自信があったのだ。みんなはどう思っていたのかはわからないが結局創刊号の編集長は僕がやることになった。